2015年6月7日日曜日

24回生 安井雄悟さん

スタッフ(以下ス):本日はよろしくお願いします。
安井氏(以下安):よろしくお願いします。

ス:高校時代の想い出を教えてください。
安:サッカー部での活動が印象に残っています。当時の監督が体育大学出身の方でかなりきつい練習でした。私はサッカーのスキルが高かったわけではなかったので、練習では「とにかく走れ!」と毎回言われていました。部活動では声を出すこと、仲間を励ますことの大切さを学びました。サッカーは高校を卒業してからも続けており、現在の会社でもフットサルチームを作って楽しんでいます。
また、学校祭の演劇も想い出に残っています。演劇は戦争を舞台にしたもので主役を演じました。捕虜となり家族と離れ離れになった主人公が希望を捨てず生き延び、最後は家族と再会できるという話でした。今から思うととても真面目な内容ですね。受験準備などで練習に人が集まらず、上手くいかないこともありました。それでもクラスの仲間と一社のマックで会議をしたりしながら、何とか最後まで協力してやり遂げることが出来ました。
健脚会もいい想い出です。何でただ歩いていくだけの行事があるのが不思議でした(笑)。歌会ではサッカー部の仲間で少年隊を歌って踊りました。私は東山紀之役でした。事前に練習を重ね一生懸命演じたのですが、自分の歌がすごく下手だったので全校が爆笑していました。

ス:大学時代はどのようでしたか。
安:高校卒業後は、学生の個性を重視する校風に魅かれ早稲田大学に進学しました。大学ではスキーサークルに所属していて、スキー場でアルバイトしながら練習をしていました。また、千種出身で東京に来ているメンバーで草野球チームを作りました。「ホワイトベンガルズ」という名前で、草野球年鑑にも載っていました。私は半人前なので背番号は0.5番でした(笑)。

ス:大学卒業後はどのようなお仕事に就かれたのですか。
安:大学生時はちょうど冷戦期でした。べルリンの壁が崩壊後、ドイツを一人旅しました。旧東ドイツの街ではホテルが少なく一般家庭のアパートに泊めてもらいました。翌朝起きてみると家族は仕事や学校に出掛けておらず、私ひとりで朝食を食べ、宿泊代を置いて、前の晩に預かった鍵で閉めて家を出ました。そうしたやりとりに人の素朴さや人を疑わない純粋さを感じました。またベルリンの壁では、元兵士達が壊れた壁の石を観光客に売っている光景を見て、世界が大きく変わりつつある事を実感しました。大学卒業後何をしたいか考えたとき、海外に行った大学時代の経験から、海外で仕事ができる職業に就きたいと思いました。外務省を志望し、大学時代に2回、卒業後1回、計3回試験を受けて駄目だったので、4年目は会計事務所で社員として働きながら勉強を続け、何とか受かることが出来ました。
外務省に入ってからは、専門の語学を身につけるように言われました。当時は東南アジアが成長期だったのでそこの言葉を学びたいと思い、ベトナム語を学ぶことになりました。最初は日本で仕事をし、1年後アメリカへ研修に行きました。カリフォルニアの学校で東南アジアの文化などを学びました。その後はベトナムの大使館で働くことになり、文化交流を担当し、日本の伝統文化である能楽や歌舞伎、津軽三味線のイベントを開催し、現地の方に見てもらいました。日本語を勉強している学生を中心に日本の映画鑑賞会も行いました。
2002年に東京へ帰るよう内辞が出ました。その頃ファニチャードーム名古屋新本店がオープンしていたので、一度見に行こうと思い名古屋に来ました。そして会社が新しい店作りに挑戦していることを知り、若者が集まるようなインテリアの店を作ろうと決断して安井家具に入社しました。

ス:ずっとこちらの名古屋新本店にお勤めだったのですか。
安:最初は緑区の店舗でカーペットの担当となり、売場づくりや発注の仕方などを学びました。
その頃はまだ「ファニチャードーム」ではなく「ビビホーム」という店名でした。緑店で半年ほど働いた後、新しい店作りを研究する部署へ異動となりました。当時はまだ家具・カーテン・カーペットと少しのインテリア雑貨を取り扱うだけでしたが、アメリカへ行き、チームのメンバーと新しいスタイルの店舗について研究を行い、キッチン用品などの生活雑貨を大幅に取り入れた店の計画を作りました。
商品部では様々な国(アメリカ、ドイツ等)の展示会に参加しました。現在はドイツにある共同仕入れグループのメンバーになっています。新本店店長の時は、お客様のために営業できるよう従業員と一緒に努力していました。従業員の親睦を深めるために温泉に出かけたり、歓送迎会をしたりしていました。年1回の創業記念行事では、全社の従業員が集まり、年度方針の発表や表彰などに続いて、各店よりアトラクションを披露するなど、楽しく盛り上がっています。また、毎年夏に国際交流組織「アイセック」を通じた海外学生の企業研修受け入れなども行っています。
現在は従業員の教育を担当していて、インテリアの知識や商品管理の仕方などについての研修を行っています。

ス:新店舗に移転されるということですが。
安:以前から新本店を増床する計画がありましたが、金城ふ頭にレゴランドができることが決まり、近隣エリアの再開発に伴い現店舗を敷地内に移転することになりました。この辺りは最初ファニチャードームがあるだけでしたが、現在では、あおなみ線や結婚式場、リニア鉄道館などが出来て活気づいています。
新しい店舗は2階建てとなり、現在の2倍くらいの大きさになる予定です

ス:ファニチャードームのCMでは何故マイキーが使われているのですか。
安:マイキーのCMは私が店長をやっていた頃に始まりました。店舗のリニューアルに合わせてお店のイメージを変えていこうと考え、その中で広告代理店の方と相談しながら、「欲しいものからいらないものまでやたらめったらあるところ」というキャッチコピーが出てきました。少しきわどいけれど面白いキャッチコピーで、いろいろなものがあって楽しいという私たちの店舗のイメージに合うと思いマイキーを起用しました。
CMの撮影は神戸で行っています。家具は名古屋からトラックで運び、スタジオではマイキーやママ、パパのマネキンと撮影しています。きちんとスタイリストさんがいて(笑)、1日がかりでやっています。

ス:座右の銘・大事にしていることを教えてください。
安:学生の時にスキーサークルの先輩が卒業の際に色紙に書いてくれた「迷ったらGO!」という言葉を大事にしています。行動する、実践してみる、目標に向かって続けていくことが大切だと思っています。

ス:千種生へメッセージをお願いします。
安:打ちこめる何かをとことんやっていくといいと思います。勉強でも部活でも学校祭でも何でもいいです。それこそが千種の良さだと思います。

ス:本日はたくさんのお話を聞かせて頂きありがとうございました。
安:ありがとうございました。


文責:48回生 香村太輔

2014年8月13日水曜日

22回生 絹川健一さん

スタッフ(以下ス):本日はよろしくお願いします。

絹川氏(以下キ):よろしくお願いします。

ス:現在のお仕事について教えてください。

キ:現在、私は日本のTMI総合法律事務所に所属し、ロンドンにあるシモンズアンドシモンズローファームに出向という形で働いています。事務所では紛争解決のチームに所属しています。

ス:何故、法律関係のお仕事に就こうと思ったのですか?

キ:自分が学生の頃に放送されていた「ひまわりのうた」というテレビドラマの影響で弁護士に憧れるようになりました。弱いもののために戦う姿勢に感銘を受けました。得意科目は理系科目だったのですが、弁護士になりたいという気持ちで文系に進みました。そして高校卒業後は京都大学法学部に進学。
大学在学中に司法試験に合格。司法修習生になって検事という職業を知りました。
司法修習生として働いている間、権力を持つ人こそが弱い者のために働かなければならないと考えました。正義は権力を持つ人がきちんと行使しなければならないと感じて検事になることを決意しました。その後は東京地検特捜部や法務省刑事局付き検事などを経て大使館一等書記官として英国に来ました。


ス:何故、弁護士に転職されたのですか?

キ:英国の大使館一等書記官としての任期は3年間でしたが、息子が英国にいたいという希望があったので英国に在住し続けることに。そのため、英国で求職活動をして自分の経験を活かせる弁護士に転職しました。

ス:在学当時の思い出を教えてください。

キ:バスケットボール部の活動です。特に2年生の秋の大会、愛知高校との試合は今でも鮮明に覚えています。試合の終盤、千種は二点差で負けていました。試合終了間際、相手方のファウルで私がフリースローのチャンスを得ました。フリースローを二本とも決め、延長となり最終的に愛知高校に勝利しました。30年たった今でも覚えていられる、よい想い出になっています。今でも心の糧になっています。あのときのプレッシャーに比べたら大丈夫だと思って様々な場面を乗り越えて来ました。

ス:英国に来て文化の違いに驚きました。絹川さんが英国に来て日本との違いから感じたことはありますか?

キ:日本では電車の遅延で会社に遅刻した場合、遅延証明書等がないと上司からお叱りを受けるだろうが、英国ではそんなことはありません。交通機関のストライキに出くわすこともよくあり、きついしがらみのようなものはありません。
特に英国に来て感じたのは、8割くらいのサービスがちょうどいいということです。
不完全なものを受け入れることでみんなが心地よく暮らせる。
8割から10割に持っていくことよりも、みんなが定時に帰れる、労働者の権利を保護することでみんなが緩く生きられるようになっていると思います。
家族と過ごす、個人の時間を大切にすることで、全体的に見てみんなが幸せに暮らせていると考えます。


ス:同窓会50周年に際して、同窓会に求めることはありますか?

キ:同窓会の目的が何なのか、何が一番大切なのかを今一度考えて欲しいです。伝統は先輩から後輩に伝えていくものです。後輩が前向きになれるようなメッセージを先輩たちが伝えて欲しいです。努力すれば報われるといった先輩たちの分かりやすい成功体験を伝えていってください。
ス:自分の心の支え、座右の銘ありますか?

キ:実は私はスポーツが苦手だったんです。それでも、どうやったらレギュラーになれるのかということを真剣に考え目標・目的を持って、部活に取り組んでいました。自分の苦手なことであっても目標・目的を持って工夫する。弱点を補強したり長所を伸ばしたりして行く。目的に向かって進んでいく。とりあえず前に向かって進んでいくというのが私の生き方を支えています。

ス:本日はたくさんの素晴らしいお話をお聞かせいただきありがとうございました。

キ:ありがとうございました。





2013年12月8日日曜日

16回生 朝木秀樹さん

今回のOB訪問は、名古屋市の三菱東京UFJ銀行で法人業務の支社長をされていらっしゃる、16回生の朝木秀樹さんです。  

スタッフ(以下、ス):では、インタビューをさせていただきます。よろしくお願いします。

 朝木さん(以下、朝):よろしくお願いします。  


ス:在校当時の思い出を教えてください。 

朝:3年間野球漬けの日々でした。キャッチャーをしていたのですが当時の千種高校はチームメイトにも恵まれてとても強く、3年の時の夏大では愛知県でベスト16まで勝ち進み、新聞記事に「千種、また勝つ」などと取り上げられたりもしました。最後の試合は後に西武ライオンズなどで活躍した工藤公康投手のいた名電高(愛工大名電)とあたり、負けてしました。 翌日の新聞には「千種、ついに散る!」(笑)

  ス:どのように進学先を選びましたか? 

朝:野球ばかりしていて深くは考えていませんでした。ただ、「名古屋を出たい!」という気持ちが強かったですね。10月になって、東京の大学を見に行ってみようと思い、友達数人と東京にいきました。たまたまその日に神宮球場で東大VS法政の試合をやっていて、「ここで野球がしたい」という想いが溢れ出てきて、東大を目指して勉強に励みました。共通一次が終わった時点で足切りのぎりぎりラインでしたが、2次試験で挽回して、奇跡的に東大の文科2類に合格しました。 

ス:進学先での学生生活はどうでしたか? 

朝:東大に入ってからは全く学校に行かず、本当に野球しかやりませんでした。朝起きて、昼まで寝て、昼から夜まで野球をして、プロ野球ニュースを見て寝る。そんな毎日でした!2年の秋シーズンからレギュラー入りを果たし、春秋合わせて5シーズンに渡り、試合に出場しました。 4年の春の法政戦で東大史上初の満塁ホームランを打ったことが思い出です。当時の法政大学はプロ野球選手を多数輩出するすごく強いチームだったのですが、その試合はなんと10-1で快勝することができました。 

 ス:現在の職業とその内容についてお聞かせください。

 朝:三菱東京UFJ銀行柳橋支社で支社長をしています。 満塁ホームランを打った日にマスコミに取材され、志望業界を聞かれたので金融業界を志望していると言ったらそれが新聞に載り、次の日から様々な銀行の先輩から連絡をいただきました。 当時は、そんな時代でした(笑)。
今の仕事の内容としては、主に中堅・中小企業への融資を担当しています。貸出先の企業の財務状況等を調べたりして本当に貸出してもいいのかを判断しています。 お金を貸す、という立場上、ともすると偉そうになりがちですが、お金を借りにくる企業の社長の想いを汲むことが大切で、常に謙虚な姿勢であるようにと、若い社員には必ず伝えています。 

 ス:千種でよかったところはありますか?

 朝:やっぱり、自由なところですね。当時は学校群によってどこの高校に振り分けられるかわからなかったんですよ。千種高校には勉強が大変なイメージを抱いていましたが、入ってみるとその逆でしたね(笑)  

ス:現役生にメッセージをお願いします。 

朝:「散歩のついでに富士山に登ったやつはいない」 富士山の山頂に行くためには相当の準備をしてチャレンジした結果、たどり着くことができます。散歩をしていて、運よく富士山の山頂に着くことはありません。私の今までを振り返ると、運と縁でできているような人生でした。常にチャレンジすることを忘れないでほしい。念入りな準備をし、チャレンジする気持ちを大切にする人だけが、運を引き込むことができるからです。

ス:朝木さん、ありがとうございました。
 44回生 大沢将大


2013年8月29日木曜日

1回生 山田和孝さん

スタッフ(以下、ス):では、インタビューを始めさせていただきます。


          よろしくお願いします。
山田和孝さん(以下:山):よろしくお願いします。


ス)在校当時の想い出を聞かせて下さい。

山)当時は先生との距離感がなく、校長先生にもよくしてもらいよく校長室に出入りしました。若い新任の先生の下宿等へ遊びに行ったりとか。学校での想い出は勉強よりも土曜日に集中で行われていた体育の授業や部活でした。
一年の二学期まではサッカー部の練習も肩身の狭い思いで部活動明和のグランドの片隅で行いました。
ともかく、学校の周辺、星ヶ丘からは原野で集落もまばらでした。土地改良事業が進み開発途上でした。舗装されて無くDORO-WAYと呼んでいました。
今では想像もつかないほど緑の環境豊かで「のんびり」していたかな。

ス)経歴を教えて下さい。

山)卒業後意匠科に行きたく東京芸大の夏期講習に二年から受講し、とにかく上野の森のあこがれていましたが、三度のチャレンジで挫折し、千葉大学の工業意匠にも失敗し、東京のデザイン学校に進みました。その後は本間さんという師匠の下でインダストリアルデザインを学びました。徒弟制度が厳しく一年目は章句時の支度、筆洗い等下働きが続きましたが師匠の下ではコンセプトワーク、観察眼を養いました。また商業施設等の導線計画、インテリアデザインに携わりました。しかし、様々な仕事をする中で誰かの下で働くよりも独立したいという野心が生まれてきました。そのために短期間でなくなってしまうディスプレイよりも形が残る建築に携わりたいと思い、独学で建築について学びました。そこから今に至っています。

ス)現在の活動について教えて下さい。

山)企業の監査役では日本の製造業がグローバル経済の視点で監査をしています。15年前に母親をアルツハイマーで亡くし福祉の社会化を推進するため市民グループを愛知で設立し、介護保険の制度論や政策提言を市民初で活動しました、同時にNPO法人のNPO法人あたたかい心では「重度の心身障がいの未来を考える会」を保護者と共に立ち上げ、事務局を担い学習会や行政と共に肢体不自由の子と接することで人々と住環境のについて考えています。また、12年前から
政治活動では「緑の暮らしを実現する会」を緑の党の活動を通して市民目線で政治の取り組みを行っています。
その取り組みの中で自然の再生エネルギーと住環境の重要性が大切だと考えています。
とくに3/11以降、私は第1次産業が日本を再生していくと考えています。


ス)在校生に対して伝えたいことを教えて下さい。

山)3年間の想い出を大切にして、深い絆を育んでほしいです。ソフトなものをたくさん残してほしいです。学校って何だろうという疑問を持ち悩みながら過ごすと希望がもてると思います。先輩と交流を深めアドバイズも受けてみては?
最近は千種の子を街で見かけるとちゃんと頑張れよと声をかけたくなります(笑)。この歳になると現役生を温かく見守りたくなります。

ス)未来のちぐっこへ伝えたいことを教えて下さい。

山)千種は50周年を無事迎えることができたので、今度は100周年に向かっての足掛かりを作りながら、自分たちの足跡を残してほしいです。常にその過程にいるのだからみんなに頑張ってもらいたいです。また自由闊達であってほしいです。

ス)50周年記念噴水事業等の同窓会活動についてどのように思われているか教えて下さい。

山)予算の制約など限りある範囲で努力したことは非常に評価しています。残せるものが作れたこともよいことだと思います。また在校生、OBOG、保護者、職員、PTAのスクラムの強さを感じた同時に、同窓会の活動の熱意を発信する良い機会にもなったと思います。さらに50周年に到達したことで、新たなスタートに立つこともできたとのではないかと考えています。

ス)座右の銘を教えて下さい。

山)座右の銘というよりも自分のモットーとしてあるのは、生きとし生けるものに対する「感謝」です。すべての人がすべてのものに感謝するようになれば争いもなくなり平和になると考えています。

今回話をうかがって、山田さんの強いエネルギーと向上心を感じました。また、1回生の山田さんと48回生の自分が接することができる千種の縦のつながりの強さを改めて感じました。


48回生 香村太輔

2013年5月24日金曜日

34回生 工藤裕也さん

スタッフ(以下、ス):では、インタビューを始めさせていただきます。

          よろしくお願いします。
工藤さん(以下、工):よろしくお願いします。

ス)在校当時の思い出をお聞かせください。

工)学祭の演劇でグランプリをとれたことがとても印象に残っています。
高校は無遅刻、無欠席ながら、センター試験の日に、体調を崩し途中退場してしまいました。「倒れるまでは自分の限界ではない」と思っていたので、1日に20時間くらい勉強していました。 
ということもあって、高校3年生は喜怒哀楽な1年でした。
ちなみに部活はテニス部に所属していました。でも、ガタイが良いのでラグビー部の勧誘を受けたこともありました(笑)



 ス)高校卒業後の進学先と学生生活についてお聞かせください。

 工)名古屋外国語大学外国語学部英米語学科に進学しました。
高校時代は英語が話せませんでした。ALTの先生と話さなかったことから、文集には「外国人嫌い」と同級生に書かれるほどでした(笑) しかし、出来ないことがあるのが嫌いなので、外大に進学しました。
大学時代は、吉野家で夜勤のアルバイトをして、学費を払っていました。だいだい睡眠時間は3時間程でした。
高校に引き続き、大学でもテニスを続け、2年連続で全国大会に出場し、3年次にはダブルスでベスト16に入りました。
勉強は、成績の評価はB以上をとると決め、もしBをきったら大学をやめるつもりでいました。このような経歴から、自分に自信はあったし、就職活動で落ちるとは思いませんでした。実際、10社受けたうち5社内定をもらい、4社は最終面接まで残りました。


ス)現在の職業とその内容についてお聞かせください。

工)保険会社でファイナンシャルプランナーとして、個人のお客様に「生活設計の重要性」を説き、リスク管理の一つとして、生命保険をオーダーメイドで設計しています。
 自分は学費を自分で払っていて苦しかったので、そういう思いを子供たちにしてほしくない、と思い、この仕事を選びました。
お客様の役に立つために資格を取得したり、情報収集をしたりしています。
また、相手の期待を上回り、更に2割プラスする「工藤クオリティー」でお客様におもてなしするようにしています。
また、ボランティアとして大学でキャリアサポートもしています。
どういう学生生活を送っていくべきかを伝えたり、面接の受け方、履歴書の書き方などを指導したりしています。




ス)千種高校で学生生活を送ってよかったと思うところをお聞かせください。

工)今の自分があるのは千種にいたからだと思っています。校風が自由で、やるもやらないも自由だったからこそ「やりたいと思ったことはやる」という考え方になったと思いますし、周りにすごい人がたくさんいる千種の環境たったからこそ、自分も「極めて」いけたと思っています。


ス)座右の銘を教えてください。


 工)座右の銘というか、常に心にある言葉はいくつもあります。「やりたいことはやる」というのもそうですし、常に「波風立てながら歩いてやる」と思っています(笑)。もちろん、悪い意味ではなく良い意味で。



ス)千種の在校生に向けてのメッセージをお願いします。

工)夢を持ってください。そして、それを叶えてください。やらない未練よりやってダメだった方がマシです。自分自身で夢を見て、そして叶えること。それが大事です。


ス)未来の千種生へのメッセージをお願いします。

工)努力は必ず報われます。人それぞれ、きちんと努力を続けていれば結果は得られると私は思っています。9割5分の人が途中で諦めてしまうのです。ですから、残りの5分の人になってください。
  一度、努力をしたことがあれば、後に再びエンジンをかけてやらなきゃいけないときもかけられるようになると思います。千種はそういう自分から努力のできる人になれる学校です。ぜひ、千種でそういう人になって、その後、大学や社会で活かしてほしいと思います。


今回、工藤さんにお会いし、お話しさせて頂く中で、本当にパワフルな方で、お話しするだけでそのパワフルさを分けていただけるような方だと感じました。常にその時求められているものの、ひとつ上を目指していらっしゃって、「相手にどうしたら喜んでもらえるかを考えて、相手の期待の2割増しで返す」というお言葉はとても印象的でした。
工藤さんのお言葉はとても印象的なものばかり、明日からの生活や将来に活きるお言葉がたくさん詰められたOB訪問となりました。
工藤さん、ありがとうございました。

47回生 松岡優・沖村里咲