2013年12月8日日曜日

16回生 朝木秀樹さん

今回のOB訪問は、名古屋市の三菱東京UFJ銀行で法人業務の支社長をされていらっしゃる、16回生の朝木秀樹さんです。  

スタッフ(以下、ス):では、インタビューをさせていただきます。よろしくお願いします。

 朝木さん(以下、朝):よろしくお願いします。  


ス:在校当時の思い出を教えてください。 

朝:3年間野球漬けの日々でした。キャッチャーをしていたのですが当時の千種高校はチームメイトにも恵まれてとても強く、3年の時の夏大では愛知県でベスト16まで勝ち進み、新聞記事に「千種、また勝つ」などと取り上げられたりもしました。最後の試合は後に西武ライオンズなどで活躍した工藤公康投手のいた名電高(愛工大名電)とあたり、負けてしました。 翌日の新聞には「千種、ついに散る!」(笑)

  ス:どのように進学先を選びましたか? 

朝:野球ばかりしていて深くは考えていませんでした。ただ、「名古屋を出たい!」という気持ちが強かったですね。10月になって、東京の大学を見に行ってみようと思い、友達数人と東京にいきました。たまたまその日に神宮球場で東大VS法政の試合をやっていて、「ここで野球がしたい」という想いが溢れ出てきて、東大を目指して勉強に励みました。共通一次が終わった時点で足切りのぎりぎりラインでしたが、2次試験で挽回して、奇跡的に東大の文科2類に合格しました。 

ス:進学先での学生生活はどうでしたか? 

朝:東大に入ってからは全く学校に行かず、本当に野球しかやりませんでした。朝起きて、昼まで寝て、昼から夜まで野球をして、プロ野球ニュースを見て寝る。そんな毎日でした!2年の秋シーズンからレギュラー入りを果たし、春秋合わせて5シーズンに渡り、試合に出場しました。 4年の春の法政戦で東大史上初の満塁ホームランを打ったことが思い出です。当時の法政大学はプロ野球選手を多数輩出するすごく強いチームだったのですが、その試合はなんと10-1で快勝することができました。 

 ス:現在の職業とその内容についてお聞かせください。

 朝:三菱東京UFJ銀行柳橋支社で支社長をしています。 満塁ホームランを打った日にマスコミに取材され、志望業界を聞かれたので金融業界を志望していると言ったらそれが新聞に載り、次の日から様々な銀行の先輩から連絡をいただきました。 当時は、そんな時代でした(笑)。
今の仕事の内容としては、主に中堅・中小企業への融資を担当しています。貸出先の企業の財務状況等を調べたりして本当に貸出してもいいのかを判断しています。 お金を貸す、という立場上、ともすると偉そうになりがちですが、お金を借りにくる企業の社長の想いを汲むことが大切で、常に謙虚な姿勢であるようにと、若い社員には必ず伝えています。 

 ス:千種でよかったところはありますか?

 朝:やっぱり、自由なところですね。当時は学校群によってどこの高校に振り分けられるかわからなかったんですよ。千種高校には勉強が大変なイメージを抱いていましたが、入ってみるとその逆でしたね(笑)  

ス:現役生にメッセージをお願いします。 

朝:「散歩のついでに富士山に登ったやつはいない」 富士山の山頂に行くためには相当の準備をしてチャレンジした結果、たどり着くことができます。散歩をしていて、運よく富士山の山頂に着くことはありません。私の今までを振り返ると、運と縁でできているような人生でした。常にチャレンジすることを忘れないでほしい。念入りな準備をし、チャレンジする気持ちを大切にする人だけが、運を引き込むことができるからです。

ス:朝木さん、ありがとうございました。
 44回生 大沢将大


2013年8月29日木曜日

1回生 山田和孝さん

スタッフ(以下、ス):では、インタビューを始めさせていただきます。


          よろしくお願いします。
山田和孝さん(以下:山):よろしくお願いします。


ス)在校当時の想い出を聞かせて下さい。

山)当時は先生との距離感がなく、校長先生にもよくしてもらいよく校長室に出入りしました。若い新任の先生の下宿等へ遊びに行ったりとか。学校での想い出は勉強よりも土曜日に集中で行われていた体育の授業や部活でした。
一年の二学期まではサッカー部の練習も肩身の狭い思いで部活動明和のグランドの片隅で行いました。
ともかく、学校の周辺、星ヶ丘からは原野で集落もまばらでした。土地改良事業が進み開発途上でした。舗装されて無くDORO-WAYと呼んでいました。
今では想像もつかないほど緑の環境豊かで「のんびり」していたかな。

ス)経歴を教えて下さい。

山)卒業後意匠科に行きたく東京芸大の夏期講習に二年から受講し、とにかく上野の森のあこがれていましたが、三度のチャレンジで挫折し、千葉大学の工業意匠にも失敗し、東京のデザイン学校に進みました。その後は本間さんという師匠の下でインダストリアルデザインを学びました。徒弟制度が厳しく一年目は章句時の支度、筆洗い等下働きが続きましたが師匠の下ではコンセプトワーク、観察眼を養いました。また商業施設等の導線計画、インテリアデザインに携わりました。しかし、様々な仕事をする中で誰かの下で働くよりも独立したいという野心が生まれてきました。そのために短期間でなくなってしまうディスプレイよりも形が残る建築に携わりたいと思い、独学で建築について学びました。そこから今に至っています。

ス)現在の活動について教えて下さい。

山)企業の監査役では日本の製造業がグローバル経済の視点で監査をしています。15年前に母親をアルツハイマーで亡くし福祉の社会化を推進するため市民グループを愛知で設立し、介護保険の制度論や政策提言を市民初で活動しました、同時にNPO法人のNPO法人あたたかい心では「重度の心身障がいの未来を考える会」を保護者と共に立ち上げ、事務局を担い学習会や行政と共に肢体不自由の子と接することで人々と住環境のについて考えています。また、12年前から
政治活動では「緑の暮らしを実現する会」を緑の党の活動を通して市民目線で政治の取り組みを行っています。
その取り組みの中で自然の再生エネルギーと住環境の重要性が大切だと考えています。
とくに3/11以降、私は第1次産業が日本を再生していくと考えています。


ス)在校生に対して伝えたいことを教えて下さい。

山)3年間の想い出を大切にして、深い絆を育んでほしいです。ソフトなものをたくさん残してほしいです。学校って何だろうという疑問を持ち悩みながら過ごすと希望がもてると思います。先輩と交流を深めアドバイズも受けてみては?
最近は千種の子を街で見かけるとちゃんと頑張れよと声をかけたくなります(笑)。この歳になると現役生を温かく見守りたくなります。

ス)未来のちぐっこへ伝えたいことを教えて下さい。

山)千種は50周年を無事迎えることができたので、今度は100周年に向かっての足掛かりを作りながら、自分たちの足跡を残してほしいです。常にその過程にいるのだからみんなに頑張ってもらいたいです。また自由闊達であってほしいです。

ス)50周年記念噴水事業等の同窓会活動についてどのように思われているか教えて下さい。

山)予算の制約など限りある範囲で努力したことは非常に評価しています。残せるものが作れたこともよいことだと思います。また在校生、OBOG、保護者、職員、PTAのスクラムの強さを感じた同時に、同窓会の活動の熱意を発信する良い機会にもなったと思います。さらに50周年に到達したことで、新たなスタートに立つこともできたとのではないかと考えています。

ス)座右の銘を教えて下さい。

山)座右の銘というよりも自分のモットーとしてあるのは、生きとし生けるものに対する「感謝」です。すべての人がすべてのものに感謝するようになれば争いもなくなり平和になると考えています。

今回話をうかがって、山田さんの強いエネルギーと向上心を感じました。また、1回生の山田さんと48回生の自分が接することができる千種の縦のつながりの強さを改めて感じました。


48回生 香村太輔

2013年5月24日金曜日

34回生 工藤裕也さん

スタッフ(以下、ス):では、インタビューを始めさせていただきます。

          よろしくお願いします。
工藤さん(以下、工):よろしくお願いします。

ス)在校当時の思い出をお聞かせください。

工)学祭の演劇でグランプリをとれたことがとても印象に残っています。
高校は無遅刻、無欠席ながら、センター試験の日に、体調を崩し途中退場してしまいました。「倒れるまでは自分の限界ではない」と思っていたので、1日に20時間くらい勉強していました。 
ということもあって、高校3年生は喜怒哀楽な1年でした。
ちなみに部活はテニス部に所属していました。でも、ガタイが良いのでラグビー部の勧誘を受けたこともありました(笑)



 ス)高校卒業後の進学先と学生生活についてお聞かせください。

 工)名古屋外国語大学外国語学部英米語学科に進学しました。
高校時代は英語が話せませんでした。ALTの先生と話さなかったことから、文集には「外国人嫌い」と同級生に書かれるほどでした(笑) しかし、出来ないことがあるのが嫌いなので、外大に進学しました。
大学時代は、吉野家で夜勤のアルバイトをして、学費を払っていました。だいだい睡眠時間は3時間程でした。
高校に引き続き、大学でもテニスを続け、2年連続で全国大会に出場し、3年次にはダブルスでベスト16に入りました。
勉強は、成績の評価はB以上をとると決め、もしBをきったら大学をやめるつもりでいました。このような経歴から、自分に自信はあったし、就職活動で落ちるとは思いませんでした。実際、10社受けたうち5社内定をもらい、4社は最終面接まで残りました。


ス)現在の職業とその内容についてお聞かせください。

工)保険会社でファイナンシャルプランナーとして、個人のお客様に「生活設計の重要性」を説き、リスク管理の一つとして、生命保険をオーダーメイドで設計しています。
 自分は学費を自分で払っていて苦しかったので、そういう思いを子供たちにしてほしくない、と思い、この仕事を選びました。
お客様の役に立つために資格を取得したり、情報収集をしたりしています。
また、相手の期待を上回り、更に2割プラスする「工藤クオリティー」でお客様におもてなしするようにしています。
また、ボランティアとして大学でキャリアサポートもしています。
どういう学生生活を送っていくべきかを伝えたり、面接の受け方、履歴書の書き方などを指導したりしています。




ス)千種高校で学生生活を送ってよかったと思うところをお聞かせください。

工)今の自分があるのは千種にいたからだと思っています。校風が自由で、やるもやらないも自由だったからこそ「やりたいと思ったことはやる」という考え方になったと思いますし、周りにすごい人がたくさんいる千種の環境たったからこそ、自分も「極めて」いけたと思っています。


ス)座右の銘を教えてください。


 工)座右の銘というか、常に心にある言葉はいくつもあります。「やりたいことはやる」というのもそうですし、常に「波風立てながら歩いてやる」と思っています(笑)。もちろん、悪い意味ではなく良い意味で。



ス)千種の在校生に向けてのメッセージをお願いします。

工)夢を持ってください。そして、それを叶えてください。やらない未練よりやってダメだった方がマシです。自分自身で夢を見て、そして叶えること。それが大事です。


ス)未来の千種生へのメッセージをお願いします。

工)努力は必ず報われます。人それぞれ、きちんと努力を続けていれば結果は得られると私は思っています。9割5分の人が途中で諦めてしまうのです。ですから、残りの5分の人になってください。
  一度、努力をしたことがあれば、後に再びエンジンをかけてやらなきゃいけないときもかけられるようになると思います。千種はそういう自分から努力のできる人になれる学校です。ぜひ、千種でそういう人になって、その後、大学や社会で活かしてほしいと思います。


今回、工藤さんにお会いし、お話しさせて頂く中で、本当にパワフルな方で、お話しするだけでそのパワフルさを分けていただけるような方だと感じました。常にその時求められているものの、ひとつ上を目指していらっしゃって、「相手にどうしたら喜んでもらえるかを考えて、相手の期待の2割増しで返す」というお言葉はとても印象的でした。
工藤さんのお言葉はとても印象的なものばかり、明日からの生活や将来に活きるお言葉がたくさん詰められたOB訪問となりました。
工藤さん、ありがとうございました。

47回生 松岡優・沖村里咲