2012年8月3日金曜日

千種高校国語教諭 18回生 森川龍志さん

スタッフ(以下、ス):では、インタビューを始めさせていただきます。

          よろしくお願いします。
森川さん(以下、森):よろしくお願いします。



)在校当時の思い出をお聞かせ下さい

)いろいろな思い出があって、何から話せばいいのか分かりませんが・・・(笑)




)印象に残っている先生はいらっしゃいますか?


)変わっている先生はたくさんいらっしゃいました。一社駅から学校までの食べられる草を教えてくださる先生がいて、実際に歩いている途中に草を見つけると口に入れて「これは食べられる。」なんておっしゃっていました。
クラスメイトもユニークでした。数学がとても得意で、テストで満点以外取ったことがないという伝説を残した友人がいました。数学の先生も彼から質問の手が挙がると、「何を質問されるのだろう」と緊張していました。(笑)彼は人に教えることもとても上手だったので、テスト前にはよく教えてもらいました。皆で集まって「自主ゼミ」を開講するというよりは、困ったときは個人的にそれぞれのプロ(友達)に聞いていましたね。



学校祭の準備も力を入れて行いました。「戦争・空襲」をテーマに展示を行ったのですが、インターネットは無いので、インタビューに行き、足を使って情報収集をしました。実際に使われた爆弾の破片も借りてきて展示をしました。演出や小道具などもとてもリアルに再現できたと思います。当時は戦争を体験された方が自分たちの親世代にあたる方だったので、展示のあまりのリアリティーに実際に体験した戦争のことを思い出してしまい、顔が真っ青になってしまうお母さんもいらっしゃいました。

                     
)進路についてお聞かせ下さい。


)以前は、学校の進路指導のときに自分の進路の思い出について話したことがあったのですが、最近はあまりしていないですね。そのときによく話していたのは「自分の本当にやりたいことや合っていることを避けていても結局は自分に一番あっている道に帰ってくる」と言うことです。
 最初は教師になろうとは思っていませんでした。教育実習も「資格を取れれば…」と思って申し込みました。就職を考えたときにコピーライターになりたいと思ってマスコミ系を中心に就職活動を行いました。しかし、テレビ局の面接で「製作の仕事がしたい」というと、面接官に「そんな仕事できるわけがないだろ」と言われたり、集団面接の前に控え室で「自分は番組を作りたい」と熱く夢を語っていた仲間が、面接官に質問された途端に「やらせてもらえるなら、何でもやらせて頂きたいです!」と態度が急変するのを見たりして、世界の汚さや現実を知ったような気がしました。「自分は本当にこの世界で仕事をするのか」と考えているときに、教育実習が始まりました。学校はまさに学祭真最中、教室には壁ができかけていたりして授業にならないくらいでしたが、生徒たちの顔はとても生き生きとしていて、何かとても純粋なものを感じました。そして実習が終わる頃には「自分は教師になりたい」と思うようになっていました。

 
マスコミ系で働きたいという思いの中にはどこかで「皆が難しいといっている業界に就職したい」という部分があって、もしかしたら「真にやりたいこと」とはずれた道を選んでいたのかもしれません。



)現在の職業とその内容についてお聞かせ下さい。


)千種高校で国語を教えています。赴任して3年目になります。母校で教えられるということはやっぱり嬉しいことです。




)心掛けていることをお聞かせ下さい。


)自分は国語の教師なので、国語についての知識がいつでも豊富でいられるように今でも勉強しています。




)千種高校で良かったと感じるところはありますか?





)千種生には高尚なユーモアがあると思います。今、図書館の棚を整理していたら『千種陽』の創刊号が出てきたのですが…手抜きの文章に見えても、宮沢賢治の文章を引用してみたり、当時の時事ネタのパロディで書いてみたり、当時の千種生はやっていることの質が高かったなと感じます。



また、こうして世代を超えたつながりができることも千種高校のいいところだと思います。自分が学生生活を送ったのは3年だけですが、1度も一緒に学生生活を送ったことのない後輩とも、こうして共通の話題で話をすることができる。時代は変わって学生生活のスタイルも変わっているけれど、「千種生」としての根幹の部分は何も変わっていないのかもしれませんね。



森川先生のインタビューは、情熱に満ちていて、時間がいくらあっても足りないくらい楽しいインタビューでした!先生のお話を聞いていて「一度で良いから森川先生の授業を受けたかったな~!」何度も思ってしまいました!
森川先生、お忙しいところとても貴重なお話をありがとうございました。


45回生 平野 遥


2012年7月25日水曜日

27回生 坂田拓郎さん


スタッフ(以下、ス):では、インタビューを始めさせていただきます。
          よろしくお願いします。
坂田さん(以下、坂):よろしくお願いします。

在校当時の思い出をお聞かせ下さい。

坂) 親に反発して家を飛び出して、高校2年生から一人暮らしをしていました。亡くなった祖父が住んでいた一軒家に転がりこんで暮らしていたのですが、あっという間に悪友のたまり場になりました。卒業式の夜には40人くらい泊まりに来ました ()3年生のときのクラスは、周りから「スポーツ芸能科」と呼ばれるほどクセの強いヤツばかりが集まったクラスでした。担任はカマケンという名物教師で、口うるさいけど本気でぶつかってきてくれる熱い先生でした。体育祭の前に、優勝したら先生が坊主になると宣言したら、普段はまとまりのないクラスが、この時ばかりはすごい団結力を発揮して、見事に優勝。そうしたら先生が本当に坊主にしてきて、こいつはすごい!って思いましたね。


どのように進学先を選びましたか?

坂) に反発していたので、できるだけ地元から遠くて、学費の安い国立を選びました。


大学生活についてお聞かせ下さい

坂) もともとは数学・物理を専攻していたのですが、大学に入ってから、もっと現実的な手の届く問題にかかわる勉強がしたいと思うようになり、農学部の林学科に進路を変更しました。都市開発にともなって、身近な自然がどのように失われていき、それが住環境にどのようなインパクトを与えるのかを研究テーマに選び、フィールドワークや市民活動に取り組みました。それと、高校時代からの悪友には、すごく支えられましたね。やばいってときには名古屋や大阪から北海道まで飛んできてくれて、何も聞かずに、ただ近くで支えてくれました。


現在のお仕事についてお聞かせ下さい。

坂) 活のときに、とある大手広告代理店の最終面接で「働く前から適職なんてわかるわけがない。まずは好きなことをトコトンやってみろ」と言われました。その会社には落とされたのですが、その一言がすごく心に刺さって。バイクが大好きだったのでバイク便の仕事に就きました。とても小さな会社でしたから、営業から経理、商品企画まで幅広い仕事を経験するチャンスに恵まれました。自分の考えた企画で会社の業績が変わる。その手ごたえと責任の重さを通じて、少し自信がついたんですね。以前落とされた会社を、もう一度受けました。「志望動機は?」「リベンジです。」「バイク便での経験を通じて学んだことは?」「まわりで何が起こっているのか。何が問題なのか。今の自分にできることは何か。それを探し続けることが、仕事の本質だと思います。」面白がられたのか、今度は採用されました。その取引先だったのが、現在働いているサーラ住宅です。サーラ住宅は、基本性能や技術開発力はすぐれているのに、広告が追いついていないという印象がありました。そこで、広告代理店での経験を活かして、役に立ちたいと。今ではその仕事を任せてもらっています。具体的には、カタログやCMの制作、若手営業マンの教育、営業マンのバックアップ、Web広告などを担当しています。木造住宅メーカーなので、林学を専攻して得られた知識が活かせている。もちろん、広告代理店での経験も。かなり回り道をしましたが、どこで何がつながるかわからない。人の縁の力はすごいですね。


千種でよかったところについてお聞かせ下さい。

坂) つあります。ひとつは「自主自立」の校風です。人生の岐路に立たされたとき、進路は自分で決めるものです。自分らしい選択をするには、自分の価値観を養う必要がある。それは、この校風の中で育まれた部分が大きい。もうひとつは、よい友人に恵まれたことです。卒業してから20年経った今でも付き合いが続いています。朝まで熱く語り合ったり、とことん付き合って本気でぶつかったりしたから、分かり合えたことがたくさんあります。一本ぶれてない芯がある仲間たちに恵まれたことは、大きな財産ですね。


座右の銘があれば教えて下さい。


坂)『資本論』のなかの一節、「我が道を行け。他人に大いに語らせよ」です。何か選択を迫られたとき、必ず周りからは賛否両論がある。それに振り回されるのではなく、耳を閉ざすのでもなく。ただ、参考にする。その上で自分なりの選択をして、その結果を自分自身で真摯に受け止めればいい。

在校生へのメッセージをお願いします。


坂) 親を大切にしてください!()自分が親になって、子育てをしながら仕事をするのはとても大変なことだとわかりました。自分が親にしてもらったことを思うと、親を守らなければと思いますね。それから、とことん考えられる時間・自分をみつめられる時間は学生のうちにしかありません。だから、自分探しをしっかりして、大切な仲間を見つけてください。


未来の千種生へのメッセージをお願いします。


坂) 自主自律の校風の中で、思う存分壁にぶつかってください。世の中理不尽なことや、努力しても報われないことの方が多い。でも、あきらめずに、自分らしく生きる。千種の自主自立の校風のなかで、その葛藤にぶつかって、存分に悩んでください。






2012年3月26日月曜日

27回生 宮部和裕さん


スタッフ(以下、ス):では、インタビューを始めさせていただきます。
          よろしくお願いします。
宮部さん(以下、宮):よろしくお願いします。

)在校当時の思い出をお聞かせ下さい。

)まず、僕の学年は複合選抜制度で入学した最初の学年でした。入学当時は、(入試制度の改正により、)僕らの卒業時に千種のレベルが落ちてしまうことがないように、よりがんばろう、と思ったのを覚えています。下げちゃったかも知れませんけどね()
部活は野球部に入りました。日没まで毎日練習して…僕らはあまり強くなかったので、ラグビー部との領土権争いもありました。引退試合で僕は補欠でサードベースコーチだったのですが、そのときに自分は野球をやるというよりは、見る立場で仕事がしたいなあと思うようになり、元々アナウンサーにはなりたかったので、そういう道に進むために高校3年の夏から受験勉強を始めました。




)どのように進学先を選びましたか?

)アナウンサーというと、早稲田のアナウンサー研究会というサークルがありまして、そこにいけばアナウンサーになれる、という勘違いがあり、早稲田を第一志望にしました。





ス)進学先、学生生活についてお聞かせください。

宮)僕は浪人して早稲田の人間科学部に進学したわけですが、そこはスポーツマンが多い学部でした。そんな環境で僕はスポーツ関係の勉強をしながら、サークル(アナウンス研究会)の勉強に励みました。サークルには先生などはおらず、先輩が後輩に指導をするという仕組みでした。で、早稲田の野球部の試合を神宮球場で実況する、という練習をするようになりました。

)現在の職業とその内容についてお聞かせください。

)僕はアナウンサーという立場で、ドラゴンズを応援させてもらっています。CBCは名古屋では唯一ラジオとテレビの兼営局ということで、僕は、シーズンオフは火曜から金曜にラジオでドラゴンズ応援番組をやっており、それ以外にもニュースを読んだりテレビで野球中継をしたりしています。





)千種高校で学生生活を送ってよかったと思うところをお聞かせください。

)やっぱり、「自由だ!」ってとこですよね。()一泊LTでの討論の話が今でも生かされています。あのときあんなこと考えていたなーって。あとよく覚えているのは、生徒総会の自由討論で、ある女性が「自由を強制しないで下さい」と、本を小脇に抱えて発表していたことです。学祭やら体育会やらみんなで行う行事が多い千種ですが、彼女はきっと一人で本を読む時間がもっと欲しかったのでしょうね。部活や行事で忙しいことに充実感を覚えていた僕にはそれがすごく印象に残っていて、忙しいだけではだめで、仕事を置いとける時間というものが大切なのかなーということを感じさせてくれた出来事です。それも、千種でよかったと思うことのひとつですね。



)座右の銘を教えてください。

)僕は仕事上サインを書くことがたまにあるのですが、そこに絶対「心の実況」と書くようにしています。実況には喋りで絵を作る(映像を伝える)という責任があると思うので、そこに心を入れないと、機械的な実況ではつまらないと思うんですよ。なので、それが座右の銘ですかね。

)千種の在校生に向けてのメッセージをお願いします。

)色々と問題はあると聞きますけど、いい学校であることは今話したことから少しでも伝わるんじゃないかな、と思います。



)未来の千種生へのメッセージをお願いします。

)僕らが出た学校がどんどん活躍してもらいたいですし、僕もOBの一人としてこそっと応援させてもらっています。()ぜひ千種高校に入って一緒にお仕事ができるようになればなあと思います。がんばってください。





今回の訪問はラジオ番組の見学までさせていただいて、とても貴重な経験となりました。宮部さんはとても気さくな方で、他にも在校当時の先生のお話や、憧れのアナウンサーの大先輩のお話もしていただきました。ここには書ききれなかったお話もあるので、ぜひ動画もご覧下さい!

第一部:



第二部:


インタビュー後に、宮部さんからわたしたちスタッフに逆インタビューも行われたのですが、わたしたちの話を真剣に聞き、さらに質問し、話をどんどん促していく様子に、わたしはただただすごいなあと思っていました。宮部さんとお会いして、わたしはひとつのことに真剣に、そして楽しんで取り組む大切さを学んだ気がします。
宮部さん、素敵な時間をありがとうございました!










45回生 金村 奈見

2012年3月23日金曜日

20回生 伊藤弘紀さん


スタッフ (以下、ス) :ではインタビューをはじめさせて頂きます。よろしくお願いします。
伊藤さん (以下、伊) :よろしくお願いします。

:在校当時の思い出をお聞かせ下さい。
伊:テニス部に入っていたのですが、部活の毎日でしたね。学校帰りに同級生と遊びに行くこともなかったですね。ご飯を食べに行ったり、映画を見に行ったりしたかったのですが、部活が忙しくてなかなかできませんでした。ただ、もともとテニスがやりたくて千種高校に入ったので、よかったと思います。中学の先輩に誘われて、テニスができる千種高校への進学を決めました。ただ、テニスはやりたかったのですが、もう少し自由の時間があってもよかったかなと思います()
それと、楽しい思い出といえば学校祭ですね。三年生の夏休みは平和公園で練習をしましたし、二年生のときは展示部門でグランプリをとりました。バイキングをモチーフにした展示でした。朝早くから夜遅くまで準備に追われましたね。見回りにくる用務員さんの目を盗んで準備をしたり・・・昔は「用務人」といって、ある意味敵対視していましたね()




ス:どのように進路、進学先を選ばれたのかお聞かせください。
伊:中学のときから漠然と医者を考えていましたね。仕事の内容を詳しく知っていたわけではありませんが、人を助ける仕事っていいなと良いイメージを抱いていました。高校に入ってからもその気持ちは変わらず、また文系があまり好きではなかったこともあり、医学部に決めました。できれば地元の大学に行きたかったので、名大医学部を志望し、一年浪人して進学しました。

ス:学生生活についてお聞かせください。
伊:医学部は他の学部とキャンパスが違い、また6年制ということもあり、医学部のテニス部に入りました。バイトもしながら、週に2,3回練習していました。他大学の医学部との大会も年に5~6回あり、夏は合宿に行き、とても楽しめました。
また、学生のころは旅行にたくさん行きました。初めての海外旅行は中国でした。中国に詳しい友人と旅行をしましたが、基本的に行きあたりばったりでしたね。今から思うとすごい冒険ですね。カルチャーショックを受けたりしましたが、楽しかったです。この旅行をきっかけに、香港、シンガポール、アメリカなど、海外へ旅行に行くようになりました。

ス:現在の職業についてお聞かせください。
伊:大学を卒業し、研修医の頃は割と色々なことをやらせて頂きました。最初はとても不安で、重症な患者とそうでない患者を見分けるのも大変でした。そのあと、整形外科で経験を積み、今の病院へ来ることになりました。子供の診療をしたり、知的障害や身体的障害を持つ患者さんを診たりするので、それまでとは病気のタイプが違いました。退院する患者さんを送り出す時も、それまで働いていた普通の整形外科のように「骨折が治った」とか、「手術して病気が完治した」というのとは違い、長期にわたって治療、診療を続ける点で、戸惑うことが多かったです。

ス:座右の銘や、普段心がけていることを教えてください。
伊:整形外科は普通、けがの治療が終わったらその患者さんとの付き合いはなくなるものですが、この病院は小児を対象としているので、発達の経過をみていく必要があり、長期の付き合いになります。小児の患者さんや、障害を持った患者さんが成人になったときのことをイメージしながら10~20年を見越した治療をしていかなくてはならないのです。治療には色々な選択肢がありますし、親の考え方も違うので、将来のことも含めた、日頃の親御さんへの説明に特に気を使うようにしています。この病院ならではのことですね。プレッシャーは感じますが、長期にわたってみている子が成人したり、就職したりするときに感じる嬉しさの方が大きいです。

ス:千種高校で学生生活を送って良かったと思うことがあれば教えてください。
伊:千種高校は個性が豊かなところがよかったです。校則が厳しすぎず、先生も気さくで、やりたいことをやらせてくれました。昔は一社駅周辺には何も楽しいものはなく、通学はそれほど楽しくはなかったですが、学校でワイワイとでき、自由でよかったです。

ス:在校生や未来の千種生へのメッセージをお願いします。
伊:先輩たちがつくってきたものはたくさんあると思うので、それを見て、学んでください。そこからは自分たちのアイデア次第です。先輩たちのつくりあげてきたものにまた加えて、色々なことをしてください。せっかくの自由の校風なので、楽しい高校生活を送り、ぜひ将来につなげてください!


千種高校に在学中は、部活動と学校行事で完全燃焼され、また勉強のほうもしっかりとなさり、今は医師としてご活躍されている伊藤さんは“文武両道”に力を入れておられる、まさに千種生の理想の姿なのだと思いました。またお話を伺う中で、「自由な校風」という千種高校の魅力にあらためて気付かされました。私も千種高校で思い切り学校祭に取り組んだ思い出がありますが、そのことを「楽しかった」で終わらせず、しっかりと将来につなげていきたいと思います。
伊藤さん、お忙しい中、貴重なお話を本当にありがとうございました!

46回生 松浦沙也子

2012年2月4日土曜日

17回生 林田真紀子さん

17回生 林田真紀子さん


スタッフ(以下、ス):ではインタビューをはじめさせて頂きます。よろしくお願いします。
林田さん(以下、林):よろしくお願いします。



ス)在校当時の思い出をお聞かせ下さい
林)部活動でバレーをやっていたことが一番の思い出です。三年生の夏まで頑張りました。朝練や昼練もあり、学祭の展示などの準備に参加できないこともしばしばありましたが楽しかったです。そのほかによく思い出すのは、授業中のことなどよりも日常の何気ないことが多いです。




ス)どのように進路、進学先を選んだのですか?
林)南山大学短期大学部の英語科へ進みました。変な話ですが、高校3年生の時に父の転勤が決まり、そのときに「家族がばらばらになってはいけない、自分が早く学校を出てまた家族揃って暮らしたい」と思ったので、2年間で卒業できる短期大学を選びました。

ス)進学先、学生生活についてお聞かせ下さい。

林)みなさんが4年間かけて学ぶことをその半分の時間でやり終えなくてはならないので、授業がとても大変でした。他の授業で忙しいので教職なども取れませんでした。また、ある有名な教授の授業に出席するために何時間も予習をしなければならないこともありました。でもそれを必死にやったことがとてもいい経験になっています。
私は短期大学部でしたが、南山大学のほうのバレー部に所属していました。体育会系でした。アルバイトはミスタードーナツでしていたのですが、私が働いていた店舗のドーナッツの匂いを嗅ぐと太るという噂がながれ、そんなことは嘘に決まっているとわかってはいたものの、少しこわくなって一週間でやめてしまいました()


ス)現在の職業とその内容についてお聞かせ下さい。

林)名古屋インターナショナルスクールでJapanese(日本語)の教師をしています。大学卒業後はJTB勤めていたのですが、結婚して妊娠がわかって泣く泣く退社しました。でもそれからは、「今は子供といっぱい遊ぼう!」と決めて子供との時間を楽しんだので何も後悔していません。しばらくして友人から英語を教えてほしいと言われ、自宅で教え始めました。その後専門学校に二年間通い、日本語教諭の資格をとりました。名古屋インターナショナルスクールで教え始めて、今年で8年目です。今が一番楽しいですね。もちろん高校生活も大学生活も楽しかったけど、私は「戻りたい」とは思いません。自分が今までやってきたことは全部「今」のためのものだと思っています。氷山に例えるなら、見えている氷山のところが今、そして海面下の見えないところが昔で、全て積み重なってきているからこそ今があると思っています。毎日が新しい発見ですから、なにひとつ昨日を振り返ることはありません。自分がまだ成長段階だからでしょうか。
今教えている子供たちのほうが英語力は上で、子供たちに発音を指摘されることもよくありますが、とてもありがたいと思っています。教え、教えられる。子供たちと対等な関係が築けているのが嬉しいです。みんな違う国の出身なので、彼らの文化の違い や考え方の違いを分析するのが楽しみのひとつです。日々新しいストラテジーを考えています。
 





ス)千種高校で学生生活を送って良かったと感じるところを聞かせてください。
林)家が近かったので、友達がよく家に出入りしていました。そのおかげで家族が私の高校生活を知ってくれたのはとてもよかったと思います。家族で話が弾むんですよ。
また、千種高校の先生方は生徒を信じてくださっていたので、自由にいろいろやれたし、同時に自由には責任がついてくるということが身を以て学べました。


ス)座右の銘があれば教えてください。

林)表向きに言っているものは、「一期一会」です。ただ、私は裏の座右の銘があって、それが「笑って棺桶に入る」です。「これはやった!」「これはできた!」といったようにそのときそのときを精一杯生きて、「あー、終わった!じゃあみんな、またね!!」と言って人生を終えたい。



ス)在校生に向けてのメッセージをお願いします。
林)「外国人の子は夢を持っている」「日本人の子は夢を持っていない」といったようなことを聞くかもしれませんが、外国の人は大学で二回以上も専攻を変えたりします。もし今夢がなくても、大学に行ってから見つければいいのです。自分がいつも何かにチャレンジしていたら必ず可能性があります。

ス)未来の千種生に向けてのメッセージをお願いします。
林)千種の自由な校風は守られてゆきます。先輩方が築いてきたこの精神は伝統となってゆきます。本当に素敵な学校なので、みなさん頑張ってください!




子供たちが可愛くて仕方がないとおっしゃる林田さん。笑顔が素敵なとってもパワフルな方でした!昔に戻りたいとは思わない、いつも今が楽しい、と明るくおっしゃるその裏には、今を充実させるための相当な努力があるのだなあと強く感じました
また、現役の千種生への言葉などは、卒業して大学生となった私にも響くものがあり、とてもグッときました。林田さんにお会いしてからは、私も毎日を前を見てすごすように心掛けるようになりました。
貴重なお話をたくさんいただき、本当にありがとうございました!

46回生 浅野侑子



2012年1月18日水曜日

17回生 原田美幸さん

17回生 原田美幸さん

スタッフ(以下、ス):ではインタビューをはじめさせて頂きます。よろしくお願いします。
原田さん(以下、原):よろしくお願いします。


ス)在校当時の思い出をお聞かせください。
原)バレー部に所属し、勉強を頑張ったとはあまり言えませんが、部活に打ち込みました。千種高校ではたくさんの友達ができました。勉強ができるだけでなく、スポーツも得意で、とにかく才能の豊かな人がたくさんいました。思い出に残っている行事は、体育祭や球技大会(現:スポ大)ですね。文化祭ではシェークスピアなどをやるクラスが多かったですね。部活の団結力はとても強かったです。高校の頃の友達は、今でも集まったりしますね。


ス)どのように進路、進学先を選んだのかお聞かせください。
原)部活は高2の2学期で引退しました。文理選択は初めから理系にすると決めていたので、悩むことはありませんでしたね。もともと本を読むことが好きだったのですが、『花埋み』という本を読んで産婦人科医になると決めて、医学部を志望しました。





ス)進学先での学校生活についてお聞かせください。
)  金沢大学を見学した際、印象が良かったので金沢大学に決めました。部活は違うことがしたいと考えていました。それで、雪が降るからスキー部に入りました(笑)バイトは家庭教師していました。6年間続けて、しっかりと稼ぎました。他にもいろいろなスポーツにも取り組みましたし、いろいろなバイトをしました。スイカを収穫するといったバイトまで(笑)お金がたまったら地球の歩き方を持参して、友達と海外旅行に行ってましたね。


ス)現在の職業とその内容についてお聞かせください。
)  夫婦で産婦人科医をしています。大変なことがたくさんありますね。緊急手術や救急車に乗って患者さんを搬送したり、わけのわからない患者さんに遭遇したり・・・経営のことも頭に入れておかないといけません。ですが、それ以上に生まれた瞬間は、何度でも感動します。お産の場面で思うのですが最近は優しい旦那さんが、多くてびっくりしています(笑)


ス)千種高校で学生生活を送ってよかったところはどこですか。
)  たくさん友達ができて、いろいろなことに一生懸命とりくむ人がたくさんいるので、刺激を受けて、改めて「このままではダメだ」と実感させられました。同じクラスでは毎年集まり、学年では5年に1度大きな集まりがあります。


ス)在校生に向けてのメッセージをお願いします。
原)今の友達を大切に!輝いてください!


)未来の千種生に向けてのメッセージをお願いします。
原)生きがいを見つけて、友達をたくさん作って、刺激を受けあえるような関係づくりを!


ス)座右の銘を教えてください。
) 人生、元気に明るく楽しく!幸せに向かってまっしぐら!

原田さん、ありがとうございました。パワフルで明るく元気な方で、楽しいお話聞かせてくださいました。違う仕事をするなら?という質問にも「横浜で男子校の近くで、お好み焼き屋をやりたい(笑)」というように、おちゃめな一面もある原田さん。お話を伺うことができて、とても有意義な時間でした! 次回は原田さん紹介して頂いた、インターナショナルスクールで日本語教師をされている林田真紀子さんです!お楽しみに! 


45回生 丸山裕之